【buy恩人】ガリレオです。
突然ですが、もし、お近くかお知り合いに外国の方が居られましたら、一度、「日本の勉強の仕方あるいは教育」について尋ねられてみてください。

僕は、イギリス人の男性とアメリカ人の女性から、「日本の教育って、とっても変!」とか「どうして、そんなことを覚えさせるの?」という声を何度も聞きました。

日本で「記憶術」が廃れないのは、結局、外国人から見て「???」というような日本的な現実が背景にあるからではないでしょうかね?

    上記で、英米人との会話から見る日本の教育の在り様についての疑問投げかけに対して、諸国の事情にも精通されている松平先生よりその理由分析を教えていただきました。

    • 英国流は確かに記憶をあまり重んじない
    • フランスをはじめとするヨーロッパは、ラテン語・ギリシア語・歴史・哲学をはじめ恐るべき量の記憶を要求する
    • これは、ヨーロッパにとって古典の正しい引用が知識人の必須条件であることによる

    また、「何故、英国が他のヨーロッパ諸国と違うのか?」に関しては、

    • 文化的にイギリスが世界の覇権国家となったのは、1588年の無敵艦隊を破ってからのこと
    • それまでは、ヨーロッパの上に君臨する国とはいいがたい「辺境国」
    • だからこそ「辺境国」イギリスは、「古典文化」以外のコンピタンシーを求めたのだろう

    そして、

    • アメリカでノーベル賞を取った人には、もともとの国籍がヨーロッパ諸国の人が多い
    • 産業革命を推進した学問の淵源は実はフランス革命から逃れてイギリスに亡命してきたフランス系知識人だったという説

    などの理由から、英米式教育を否定する見解があることも事実だということです。

    従って、全ての国の外国人を対象にした場合、日本の教育の大枠に「???」と疑問視するかどうかは分らないということになります。

  • 「○○の首都は?」
  • 「○○が起こったのは何年?」
  • 「方法序説はデカルト。では純粋理性批判は誰?」

などと、まるでクイズのようなことがとても好きです。

僕も代表もお嬢も「記憶術」や「速読術」の本は一度も読んだことがありません。
いや、正確に言えば、昨年に初めて「宮口式記憶術」を読まされたのですが・・・。
でも、誰も「感心したなぁ」とも「やってみよう」とは言いませんでした。

[結論その1]としては、当たり前ですが「人それぞれ」ということです。

また、僕は、本屋で偶然に目にした速読術の本を「どんなものなんだろうか?」と手にとってパラパラとめくったことがありますが、「へぇ!」とも「やってみたい」とも微塵も思いませんでした。

一方、「記憶術」にしろ「速読術」にしろ、好きな人は非常に好きなようで何冊も読まれているようですから、本当に「人それぞれ」なんだと思うのです。

ですから、当たり前のことなんですけれど、半分は自分には向かないかもしれないことを覚悟した上で、自分にとってはそれでもやってみる価値があるのかどうかで判断するスタンスを持つことが必要なんじゃないかなと僕は思います。
そういった意味で、「人それぞれ」を認識することは大事な出発点です。

なんか、賢い人や偉い人は優れた記憶術とか持ってるから秀でているのじゃないかと思う心理が「記憶術」や「速読術」を過大に評価しているような面もあると思うのですが、僕の感覚から言えば、むしろそんな人の方が珍しいわけで(実際見たことがない)、そういう意味でも「人それぞれ」だと思います。

もし僕が「記憶術」や「速読術」に優れていたのならば(僕は文庫本1ページを5分かけて読んでも分からないことがよくあります)、その『術』自体の著作を書くよりも、その能力を活用してもっと違う方面に活かしたいと思いますし、そんなに優れているなら、もっと崇高な志を持たねばならないと思ってしまいます。
社会としての課題は山ほどあるわけですから・・。

「人それぞれ」の認識の上に立って、自分にとっての利用可否の判断をする上では、まずは、「記憶術を使いたい目的は何なのか?」、「本当にこの方法が適しているのか?」をはっきりさせておくことが必要だと思います。

[結論その2]としては、「目的は何なのか?」を明確にするということです。

例えば、ニュースキャスターの古館伊知郎さんは、仕事する上で場所法=ローマンルーム法という記憶術を使っているというお話は僕にも「なるほど」と大変よく理解、納得できました。

古館伊知郎氏はトークの順番を覚える方法としてキケロを起源とするローマンルーム法を使っているそうです。(養老孟司との対談記憶がウソをつく!

このように、末永く覚える必要もないけれども、業務上、毎日入れ替わるメニューにおいて、今日の業務を円滑に進めるために、少なくはない今日の情報を覚えておく効率的な方法というのなら僕も十分、その効用を理解できますし、なるほどと思います。

毎日、ある程度の新しい情報を処理しなくちゃならない場合や理屈抜きで大量の情報を覚えておかなければいけない場合などでは身に着けておくと便利だということをもちろん僕は否定するわけではありません。
他にも、いろいろ適する場合も多くあるかと思います。

が、根幹の勉強となると全く話が違ってきます。
何故なら、根幹の勉強は例外なく理解が必要なものだからです。
もしそうでないなら、それはどうでもいい勉強だと僕は思います。
速読で読めるようなものは、どうでもいい本ではないですか?

理解が必要な場合には、記憶術を使うことはかえって愚かなことだと僕は確信しています。
僕は、英単語暗記に関してすら「記憶などを使うのは愚の骨頂!」って書いています。
「世の賢人は、精読と濫読を上手く使い分けれる人だ」というのが僕の持論です。
(悲しいかな、僕はできないのですが・・・)

重複して申し訳ないのですが、
要は、「求めておられる記憶術を何に使うのか?」目的を明確にすることが大切です。

それが、受験勉強など根幹の勉強が対象であるというのであれば、僕は「時間の無駄」という立場です。
『術』を覚える時間が無駄という以上に、勉強の質の劣化は時間などでは換算できない大きな落し物に繋がると僕は確信を持って言えますから・・。

ただ、宮口式では実際にそれで大学合格につながったというメールもいただいたようですから、宮口氏をはじめ、できる人にはできるのだということも確かに言えるのだと思います。
やはり、「人それぞれ」ということですかね。

だからと言って、そこで放置したままでしたら、確実に「知性的な人」とは程遠い評価が待っていると僕は思いますね。

例えばマルクスの「資本論」を記憶術や速読術を使って1日で読み終えたとしても、次の日から講義をしろと言われても書籍のテープレコーダーを流すのと変わらない講義しかする術がないレベルの人とみなされるのがオチではないでしょうか。


さて、聞き慣れない名前も出たようですから、松平勝男さんにご教示いただいた内容も拝借して、僕なりに「記憶術」の起源をまとめてみますと、そもそも、ギリシアの叙情詩人シモニデスが詩や神話を公演するために、それらを暗誦する方法として用いていた方法をローマの政治家であり弁論家のキケロが『弁論家について』にて紹介し、これを『記憶術』として実用化し(ローマンルーム法)、これをもって大弁論を行ったというのが『記憶術』の起源に関する正しい認識だと思われます。

すなわち、「記憶術」は、もともとはレトリック(修辞学・弁論術)のための方法論として誕生し、その後、分化しながら研究され発展したのですが、「場所法」以外の理論はデカルトによって否定され、それ以降は世界的には下火となり欧米ではほとんど研究対象とはならずに今日に至っているようです。(松平勝男氏談)


お嬢は別として僕たち【buy恩人】は理系出身だからかもれませんが、ルネ・デカルトが記憶術を忌み嫌った感覚はとてもよく分かりますし、ここに書いた内容そのものがデカルトの現代的代弁かもしれません。

ことのついでに、書かせていただくと、高校生・受験生の中には、デカルトと言えば、哲学者であり数学とは無縁の人物だと思ってる諸君も多いのかもしれません。
学校では今でも「デカルト平面」という言葉で教えられることは少ないでしょうから、君たちが頻繁に使っている座標系はデカルトが導入した概念であることを知らない子も意外に多いようです。

また、デカルトと言えば、「cogito ergo sum」=「我思う故に我あり」という命題しか出てこなかったり、「デカルト=方法序説」という等式しか思い浮かばないのが普通の高校生なんですね。
暗記すれば勝ちという風潮が作り出した風景ですね。

「二元論」や「還元主義」「神の存在証明」のような言葉が出てこないのはもちろん、その体系などは知らないし興味も湧かないというのが普通なんだと思います。
それが日本の教育と言いましょうか何と言いましょうか・・。

もちろん、僕は非難しているわけではありません。
「デカルト=方法序説」と書けば丸がもらえて成績優秀「賢い人」となりますし、恥ずかしながら、評論はよく読んでいた僕だって、知りたいとは思いながらも、とても手が回らず、実際に接していったのは大学生になって以降のことですから、偉そうに言える身分ではありません。

内容をそこそこ理解してポンポンと答えが出てくるのなら素晴らしいことですが、記憶術として「言葉と言葉」や「言葉とイメージ」を連結させる手続きだけで、機械的に答えが出てくるだけのものであれば、「一体それが何なの?」と思ってしまうわけです。

すなわち、実際に僕自身の実用上、「記憶」は全く必要なかったという以上に、これを中心に据えてしまうと真の勉強を阻害するのではないかと確信するわけです。
だから、僕は「○○記憶術で東大に受かった」なんて言葉を見ると、官僚・役人とか事務屋とかインタビューで「本当に東大生になるの?」と思うような受け答えをする新入生の像がすぐに浮かんでしまいます。

[結論その3]としては、概念やその体系全体を学んでいかなくちゃ「勉強」ではないということだけは認識しておくべきだということです。
自分の根幹となる勉強の類に関しては、「記憶術」を決して勉強の中心に据えずに、あくまで補助の手段として考え、使うべきだってことです。


基本は理解記憶、すなわち、全体の中の個の関連性を把握し系統化することによっての記憶が基本であり、その中で理屈なしに覚えねばならないことやその方が便利なことは、語呂合わせなどの手法で記憶するというのが本来のあるべき姿でしょうし、最も効率的と言えるということですね。

実際、僕も「水平リーベ・・」や「いい国作ろう鎌倉幕府」や「人並みに奢れや」ぐらいしか意味なく覚えたものは思いつかないですね。

と言うより、まず別のものをイメージしてそこに当てはめていくというような作業自体が苦痛以外の何物でもないと最初から思ってしまうわけです。

多分、右脳・左脳論者から言わせると、「あなたは、右脳を使うのが苦手なだけなんです。だからこそ、右脳を鍛えなさい」となるんでしょうね。

効率化や短時間記憶が叫ばれるのが「記憶術」ですが、【buy恩人】のアンケート結果を見ていただければお分かりのように、叫ばれる割には実際の効果を得れる人は少ないということが歴然とした事実のように見受けられます。

ともかくも、日本に伝わっている「記憶術」は米国経由で流入した「場所法」の一種で、それがいくつかの流派に分化して現在に至っている(松平勝男氏談)とのこともあり、今、目にしている「記憶術」も、その多くは「場所法」をベースとしているようです。

宮口式記憶法も、先ほどのキケロを起源とするローマンルーム法ですが、wikiに「完璧な記憶力の持ち主として「記憶術師シィー」と呼ばれた」とあるソロモン・シェレシェフスキーの方法とよく似ていると感じられたものでした。